第10回『お隣の「中国さん」とどう付き合うか。』

お隣の「中国さん」とどう付き合うか。

日本と中国の国交が回復して来年は50年を迎える。この半世紀で中国が世界の強大国として台頭、各国は「中国対応」に追われている。特に 隣国の日本にとっては「中国との付き合い」は重要。ところが半世紀経っても経済、文化の交流は進んだが、肝心の政治面では進化が見られない。それは何故なのか。お隣の「中国さん」との「付き合い方」を考えたい。

僕が最初に中国を訪れたのは、1972年の10月23日。田中角栄首相が訪中、周恩来総理と共同声明に調印、日中国交回復が実現してから24日後だった。国交の無い時代に日中の交易・交流を繋いできた「日中覚書貿易」の最後の交渉団(団長 岡崎嘉平太)の随行記者としてだった。

岡崎嘉平太は周恩来から「日中国交回復の民間人では最高の功労者」と称えられた人物。日本外交は岡崎の足跡を振り返り、改めて「中国との付き合い方」を再考すべき時ではないだろうか。

岡崎は元日本銀行マン。戦前、上海へ派遣され、大使館の参事官も務め、1946年(昭和21年)春の帰国まで8年間駐在した。そこで中国と中国人を深く知り、中国との交流の必要性、重要性を強く認識した。

戦後、民間企業の社長を務める傍ら中国との交易・交流復活を目指し、覚書貿易(1962年協定成立)の実現に尽力した。

1966年に全日空機が松山市沖で墜落した時、全日空社長だった岡崎は貿易交渉の団長として中国に渡り、日本を留守にしていた。このため当時、親台湾だった佐藤栄作首相に暗に批判され、翌春、社長を辞任した。

実は岡崎は戦前、鉄道省から上海に派遣されていた佐藤と半年ほど同時駐在、宴会などで同席した。岡崎は、所用で日本へ向かう船の甲板で、当時、上海一美人の日本人芸者に会い、「佐藤が好き。箱繕を彼の前に運ぶ時、足が震える」と打ち明けられた。後に「政界の団十郎」と呼ばれた佐藤は若い頃から美男で、モテた。「だから 僕は昔から佐藤が嫌いだった」といたずらっ子のように話した75歳の岡崎の笑顔が忘れられない。

佐藤の後継首相は福田赳夫と田中角栄の争いで、「日中国交回復」が焦点となった。1972年7月6日、自民党大会で田中が総裁に選ばれた。僕は岡崎のコメントを取るため記者クラブから徒歩5分の覚書貿易事務所へ向かった。「よかったですね。これで日中国交回復が促進されますね」と問い掛けると岡崎は「水の流れる方向は変わりそうだが、流れる水は濁るかも知れない」とクールだった。その僅か2ヶ月半後、田中は訪中、日中国交回復がスピード実現した。だが、その2年後に金脈問題を追求され、田中は首相を辞した。歴史は岡崎の予感通りに展開した。

日中国交回復が実現した時、岡崎は「次はインドだ」と語った。「世界は欧米の基準・主導で動き過ぎる。独自な文化・伝統を持つアジアが自立し、世界はもっと多様化すべき」が岡崎の持論だった。そのためには「インドともっと仲良く」が狙いだ。岡崎の「親中国」は戦前から駐在した縁による「中国好み」から発しただけのものではなかった。

覚書貿易は交易だけでなく、日中の記者交換も実現した。1964年9月末に日本人記者9社9人が北京へ赴任した。ところが、このうちの一人、日本経済新聞の鮫島敬治特派員が1966年8月にスパイ容疑で逮捕された。この時、「助けて下さい」と鮫島夫人に泣き付かれた岡崎は「男は大病、浪人、投獄を経験しないと大きくなれない。鮫島君はきっと偉くなる」と励ました。後年、鮫島が日経の常務編集局長に就任した時「僕の言った通りなっただろう」と岡崎は自慢気だった。

覚書貿易が終結するに当たって岡崎に心残りがあった。「日経の鮫島記者の名誉回復」である。鮫島は1年半の拘留後、釈放され帰国していたが、「有罪」の烙印は捺されたまま。そこで随行記者に「日経は鮫島を指名して欲しい」と岡崎は要請した。入国が認められれば、鮫島の名誉回復に繋がるからだ。

ところが日経だけ、中国からinvitationが来なかった。そこで急遽、僕が差し替わりで随行記者団に加わることになった。周恩来は岡崎の労をねぎらうため、貿易交渉終了後、「長江の三峡下り、桂林の漓江下りを盛り込んだ大旅行」への招待を用意していた。お陰で僕は「悠々たる長江の秋」を楽しむことができた。

岡崎は戦後、1962年から92歳で亡くなる89年までの27年間に100回訪中した。そして初訪中で周恩来と会見して以来、周死去までの13年間に公式会談を18回を重ねた。それ以外にも会食や非公式な歓談もして「周総理とは相当な回数会っている」と述懐した。

戦後は民間経済人だった岡崎が中国の最高幹部と、かくも親密に交流できたのはお互いに相手を敬い、人間性を愛する「友情」とも言える信頼関係が築けたからだ。日本と中国の国交回復が「中国の賠償請求放棄で実現した」のは「岡崎嘉平太と周恩来の人間関係が与った」と見るは穿ち過ぎだろうか。

世界中、何処も隣国関係は難しく、仲は概ね良くない。ユーラシア大陸の西端の欧州も英国のEU離脱など各国間に摩擦が絶えない。しかし、欧州は「揺蕩えども沈まず」、したたかで成熟した世界を形成している。その大きな理由は各国の首脳から一般国民レベルまでコミュニケーションの密度が濃い。EUという連合体の存在もあるが、嘗て宿敵国家と言われたフランスとドイツは合同の定期閣僚会議を開いている。

それに比べユーラシア大陸東端の極東アジアはどうか。安倍晋三首相は日本の最長政権を記録、「『地球儀を俯瞰する外交』を展開した」と外務省は自画自賛する。確かに安倍は世界80ヵ国を訪問、飛行距離は15万8千㎞、地球を39.5周した。しかし、どんな成果を得たのか。最重要課題とした北朝鮮拉致問題や領土問題は全く進展しなかった。

それは中国、韓国など近隣諸国との対話が決定的に欠けていたからだ。第2次政権で7年を超える首相在任中、安倍の訪中は4回で、中国トップとの差しの会談は1〜2回、訪韓は2回で韓国大統領と「差しはなかった」と思う。これでは「灯台下暗し外交」と言われても仕方ない。足下や周囲を見ずに「拉致」や「領土」が解決できるはずがない。

まして今は、日本に岡崎に代わるべき人材はいない。中国のリーダーも周恩来より毛沢東を志向、覇権主義を強め「中国脅威論」を招いている。

「一衣帯水の隣国」の日中両国は、「悠久の交流の歴史」に思いを馳せ、今一度、半世紀前の国交回復の原点に立ち返り、対話を深め、平和的関係を再構築すべきではないだろうか。(敬称略)

2021・3・31
上田 克己

プロフィール

上田 克己(うえだ・かつみ)
1944年 福岡県豊前市出身
1968年 慶応義塾大学卒業 同年 日本経済新聞社入社
1983年 ロンドン特派員
1991年 東京本社編集局産業部長
1998年 出版局長
2001年 テレビ東京常務取締役
2004年 BSテレビ東京代表取締役社長
2007年 テレビ大阪代表取締役社長
2010年 同 代表取締役会長
現在、東通産業社外取締役、日本記者クラブ会員
趣味は美術鑑賞