第15回 『パラリンピックのパラドックス』

パラリンピックのパラドックス

東京オリンピックに続き、パラリンピックも原則、無観客で行われ、大過(?)無く閉会しました。「東京2020オリパラ」の開催には当初から疑問を感じていましたが、開催が決まり、挙行された以上「無事に終わって欲しい」と願っていました。

オリ・パラともテレビで結構、観戦しました。オリのテーマである「多様性と調和」は寧ろパラで実感しました。「パラリンピックのパラドックス」です。

これまでオリはどの国で開催されてもテレビで観戦出来ましたが、パラはニュースで断片的に観る程度で、一つの競技や試合をフルに観たことはありませんでした。東京開催の効用でNHKがパラ競技を幅広く長時間放映し、テレビ観戦が出来ました。新聞もオリと同等に大きく取り上げました。

そして様々な障害を持った選手がオリと同じ、或はパラ独自な色んな競技に挑戦する姿は驚異的で、感動しました。「パラ競技の魅力」を改めて知りました。 日本選手でも14歳と最年少の山田美幸選手が水泳で銀メダル2個、50歳の杉浦佳子選手が自転車競技で金メダル2個の最高齢獲得、34歳の鈴木孝幸選手は水泳で金・銀・銅と3種合計5個もメダルを取りました。パラの「多様性」の現れです。

障害の程度によって男子陸上100㍍だけでも16クラスもあり、東京パラリンピックの金メダル数は539個に上り、オリンピックの339個を大きく上回っています。パラの参加国・地域は162ヵ国とオリの205より少ないのですが、日本体育大が指導者を育成し、新たに参加に漕ぎ着けた国が5ヵ国。参加国はまだ増えそうだ。米軍撤退で、政権崩壊のアフガニスタンからは開会式後に選手2人が駆け付けるなどドラマもありました。

各々の選手の人生には「壮絶なストーリー」があり、「多様」なアスリートが躍動し、「人間の逞しさ、可能性」を見せつけました。各アスリートはパラリンピックの創始者、英国の医師、ルードヴィヒ・グッドマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」の言葉を見事に体現。

パラのアスリートは競技後のインタビューの発言も明るく、堂々して「やり切った」感が滲み、「清々しさ」を感じました。こうした状況はトライアスロンの谷真海選手がTwitterで発信した「みんなちがって みんないい」がピッタリ表現しています。「幻の童謡詩人」金子みすゞの詩の引用です。

「言葉の力」は偉大です。「官僚作文の代読」を繰り返した菅首相も、気の利いた引用、心のこもった「自分の言葉」の1つも発すれば、「自民党総裁選不出馬」という「不本意な事態に至らなかったかも…」です。

パラには障害が極めて重度な選手や一人で移動できない選手もいます。そうした選手にはアシスタントが付きます。それがチームの場合もあります。いろんな競技で障害者と健常者が一体となった「調和」が展開され、共生社会へ繋がります。

パラの競技では東京の都心の公道を走るマラソンも沿道での「観戦自粛」が呼び掛けられました。それでも僕は1つぐらいは「冥土のみやげ」にナマを観たい、とパラ最終日の5日朝、人の少ない芝公園沿いの日比谷通りでマラソン選手を応援しました。57年前に新宿南口の甲州街道で「アベベ、円谷、君原を応援した」東京五輪のマラソンを思い出しながら。

お目当ては視覚障害の女子マラソンランナーの道下美里選手。前回のリオデジャネイロで銀メダルを獲得、その後、世界記録を更新、東京で金メダル獲得が有力視されていました。

144㎝と小柄で44歳の彼女は、ロシアのエレーナ・パウトワ選手に数メートル遅れで、小雨の中、伴走者と共にしっかりしたピッチで走って行きました。自宅マンションに戻り、テレビを附けると、道下選手がトップに立ち、独走状態でした。そのまま国立競技場へゴール。サングラスを取った彼女のはち切れるような明るい笑顔が素敵でした。

パラリンピックの発祥はロンドン。1948年のロンドン・オリンピックに合わせ、ルードヴィヒ・グッドマン博士が第2次大戦の傷痍軍人のリハビリのため「車椅子アーチェリー大会」を病院で開いたのが始まりです。

僕は40年ほど前にロンドンに駐在した時、街角や地下鉄・バスなどで車椅子に乗った障害者を度々見掛けました。東京に比べ「ロンドンは障害者が多い」と驚きました。

ところが当時、日本はバリアフリー環境が未整備で、市民の障害者への意識も低く、「いじめ」や「差別」が散見されました。障害者は外出が憚られ、家に籠りがちで、東京では「目に付かなかっただけ」と後で知りました。ロンドンは「パラの発祥の地」に相応しくバリアフリーが整い、障害者に対する市民の意識も高く、障害者が「自由に外出していた」のです。

「東京2020オリパラ」は様々な問題を残しましたが、その開催で東京のバリアフリー化、ユニバーサル・デザインが普及すれば意義があったと評価したい。そしてパラのアスリートの活躍を観て、日本でも障害者への理解が深まり、「いじめ」や「差別」の解消が進めば大きなレガシーです。

アフガニスタン選手がパラの開会式に遅れても競技に参加出来たのは朗報でした。IPC(国際パラリンピック委員会)のパーソンズ会長は「(東京大会の)忘れられない出来事は、アフガニスタン2選手を選手村に迎えたことだった。スポーツを通じて2人の命を救えたと感じたからだ」と語っています。

一方、パラリンピック期間中に行われた日本政府の「アフガニスタン退避作戦の遅れ」は、余りにお粗末で、看過できません。日本政府は米軍撤退までにカブールから在留邦人と日本大使館やJICA(国際協力機構)などの現地職員・家族など約500人を国外退避させる計画でした。そのため自衛隊の大型輸送機3機と政府専用の特別輸送機の合計4機、自衛隊員300人を派遣しました。

しかし、アフガニスタン国外へ輸送できたのは邦人1人と米軍に頼まれた米国関係協力者14人でした。つまり当初、日本政府が目標にした救出対象者で国外退避が出来たのはわずか1人だったのです。

この結果について記者に問われた菅首相は「今回のオペレーションの最大の目標は邦人保護だった。そういう意味ではよかった」と答えました。これには唖然としました。 アフガニスタンへ派兵していた米国、英国は別としてもドイツ、フランスなどの欧州諸国も何千人もの関係者を救出退避させました。アジアでもインド、韓国、インドネシア、フィリピンなど各国は各々のやり方で大勢の脱出に成功、韓国メディアは「日本の失敗」を冷ややかに報道している始末です。

何故、日本の「退避作戦は失敗した」のか。厳しい検証が必要です。

実はカブールが陥落した8月15日に岡田 隆 駐アフガニスタン大使は同国を留守にしていたようです。カブールの日本大使館は大使不在のまま、15日に素早く閉鎖、トルコのイスタンブールに臨時事務所の開設を決めています。そして17日に日本大使館の日本人職員は防衛駐在官も含め12人全員が英国軍機でドバイへ脱出しています。国外退避を望む邦人や日本関係で働く現地の人々を「置き去りにして」と言われても仕方のない「逃避行」です。

それにしても日本のアフガニスタン退避作戦を「よかった」の一言で片付けた菅首相を、「辞任表明した」とは言え、その後、日本のメディアは追及していません。日本の「人道、人権意識は何処へ」です。

アフガニスタンの難民救済・支援に尽力した緒方貞子さんや現地に住み医療や灌漑事業に献身した中村哲医師が存命だったら「どれ程慨嘆された」でしょうか。

東京五輪は「おもてなし」をスローガンにして、当に「裏の不正、不始末、不規則発言」が続出しました。女子「やり投げ」で銀メダルを獲得したポーランド選手が幼児の心臓手術費のためメダルをオークションに出品した美談が報道されました。「重い槍」ならぬ「思い遣り」を届けたのです。日本の次期首相に「美談」は望みません。

自民党の国会議員や自民党員が「菅にはスガレナイ」と感じるのは勝手ですが、「世界が日本には頼れない」と受け止めるのは「残念」では済みません。コロナ対策、北朝鮮拉致問題だけでなく、「アフガニスタン置き去り問題」もきちんと引き継ぎ、菅流の「その場しのぎ」の「投げやり」な言動は慎んで欲しいと思うばかりです。

2021・9・11
上田 克己

プロフィール

上田 克己(うえだ・かつみ)
1944年 福岡県豊前市出身
1968年 慶応義塾大学卒業 同年 日本経済新聞社入社
1983年 ロンドン特派員
1991年 東京本社編集局産業部長
1998年 出版局長
2001年 テレビ東京常務取締役
2004年 BSテレビ東京代表取締役社長
2007年 テレビ大阪代表取締役社長
2010年 同 代表取締役会長
現在、東通産業社外取締役、日本記者クラブ会員
趣味は美術鑑賞