第32回『「大谷2刀流」が切り裂く日本と世界の「スポーツ・ビジネス」(産業の興亡・企業の盛衰~part6)』

「大谷2刀流」が切り裂く日本と世界の「スポーツ・ビジネス」(産業の興亡・企業の盛衰~part6)

米国大リーグ(MLB)での大谷翔平の活躍が連日、日本中を熱狂させている。この「フィーバー」は何をもたらすのか。野球というスポーツ分野に留まらず、日本はもちろん世界のスポーツ・ビジネスに様々な影響を及ぼしつつある。更にその「大谷効果」は日本の政治、経済、社会へも波及する雲行きだ。

大谷の活躍の「凄さ」は今や「表現する言葉」が見つからない。大谷は100年ほど前に活躍した「伝説的プレイヤーのベーブ・ルース」に比較される。MLBの長い歴史でも「投打の2刀流」に本格的に取り組んだ選手はルースぐらいしかいないからだ(1960年まで存在した黒人のニグロリーグには2刀流選手が複数いたが)。そのルースもシーズンを通して「フルに2刀流で活躍した」のは1919年の1シーズンぐらい。

これに対して大谷は日本でほぼ4シーズン、そしてMLBで既に3シーズン近く「2刀流でプレイ」して来た。その結果、2刀流に関してはルースの記録を2022年のシーズンで(恐らく)全て塗り替えた。もう大谷に「ベーブ・ルース以来」との形容は「過去の評価」に過ぎなくなって来た。

2023年の今シーズンの大谷の活躍を観ていると、比較の対象がない。従って「特別」、「規格外」、「異次元」などと称され、米国でも「現実とは思えない」空想の世界の「ユニコーン」に例えられる。僕の「驚き」は2刀流もさることながら、大谷が「ホームラン数でトップ」を走っている現実。これまで海外で活躍する日本人アスリートは、いくら優れたプレイヤーでも究極は「フィジカル面で限界」を感じて来た。パワーでも外国人に優る大谷の登場は「日本人の進化」と思いたいが、誤解を恐れず言えば「突然変異」としか考えられない。

大谷の日々の活躍が「新しい記録・歴史」を創っていて、我々は「嘗て観たことのない現象・ドラマを目撃出来ている」。「ラッキー」と素直に喜ぶべきだが、この実績がもたらす「大谷効果」が気にかかる。

大谷は今シーズンのオフに自由に他チームへ移籍出来るフリーエージェントの権利を得る。そこで早くも大谷の新契約額が取り沙汰されている。MLB関係者やメディアでは「年俸6千万ドル(約84億円)説」が飛び交っている。これまでの大リーグ選手の最高額を38%超も上回る。10年契約だと7億ドル説もあり、円安の1ドル=145円換算だと「1千億円を超える」(2刀流は永く続けられないので長期契約はない、との説もあるが)。10年とは言え契約額で「1千億円プレイヤー」は世界のスポーツ史上初めてではないだろうか。

因みに日本のプロ野球選手の史上最高年俸は2021~2022年の田中将大(楽天)の9億円。大谷が6千万ドルの評価でも、田中の9倍強となる。 この余りに大きな「日米格差」は何をもたらすか。

今さらの現象ではないが、「日本のトップ・プレイヤーの米MLB流出」は更に加速する。日本のプロ野球はMLBの「二軍(ファーム)化」し、MLB選手の「再就職の受け皿」になる。と言って目くじらを立てることは無いかも知れない。それで日本のプロ野球のレベルが上がり、「WBCに優勝、世界一」になれた。そして野球人気が盛り返せば、日米ともWin-Winと受け止めていい。

欧米のメジャー・スポーツの報酬、賞金の上昇に「大谷効果」が拍車をかけるかも知れない。そうなれば日本選手の海外流出、挑戦も益々増えて行く。この傾向は野球だけではなく、サッカー、ゴルフ、テニスからバスケットボールなどへ広がる。畑岡奈紗がメジャー初制覇を逃したゴルフの「全米女子オープン」には日本選手が22人も参加した。日本の女子ゴルフの「選手層が厚くなった」と喜びたいが、日本もシーズン中であり、「国内ゲームの空洞化」が心配。

全米女子オープンの賞金総額は円換算で15億6千万円、優勝賞金2億8千4百万円。同時期に行われた日本の女子ツアーの賞金総額は1億円、優勝賞金は1千8百万円。米国ツアーの賞金は日本の16倍近い。これでは「日本ツアーを欠場して米国へ行く」日本選手が増えても不思議はない。

こうした高額賞金や高い報酬を欧米のスポーツ界が出せるのはなぜか。米国と欧州は世界の有力スポーツの大会を産み、育てて来た。それらがメジャー大会として「ブランド力」を持ち、収益力を高めた。世界の商業スポーツの主な収益源は観戦チケット収入、広告やグッズなどのスポンサー収入、テレビなどの放映権収入。このうち放映権収入はメジャー大会、メジャーゲームだとコンテンツ市場は世界へ広がり、ハネ上がる。

MLBがここ10年来、観客動員数は伸びなくても選手の報酬を上げて来れたのは、米国内だけでなく日本など「海外からの放映権収入が増えた」からではないか。NHKなどのMLBの放映権は電通を通して取得しているが、購入先との「守秘義務」を理由に金額は非公表。これはMLBとだけでなく、スポーツ・コンテンツに広く見られるが、公共放送の支出内容が非公表なのは「釈然」としない。

こうした取り引き形態が「巨大利権」を産み、それを握った者達は離そうとしない。オリンピックのIOC(国際オリンピック委員会)、サッカーのFIFA(国際サッカー連盟)のトップは歴代、欧米のエスタブリッシュメント人脈に引き継がれて来ている。この固定・独占構造が「汚職」を産む。

因みに日本チームの劇的優勝で日本中を熱狂させたWBCも、主催はMLBとその選手会。WBCの収益の過半はMLBのポケットに入ったはず。

欧米主導の世界のスポーツのメジャー大会やチームが収益力を増しているのは、中東の「オイル・マネーの流入」もある。2000年代に入ってUAE(アラブ首長国連邦)、カタール、サウジアラビアなどの産油国の政府系ファンドが欧州のサッカーチームを買収、「2022年W杯のカタール開催」に漕ぎ着けた。UAEは買収した英国マンチェスター・シティーの選手強化に300億円以上を投入、クラブチームとして3冠を獲得した。

中東産油国の「スポーツ道楽」はサッカーに留まらない。サウジの政府系ファンドは2021年秋、男子プロゴルフのツアー「LIVゴルフ」を立ち上げ、米国PGAツアーから有力選手を高額でスカウト、訴訟に発展していた。

ところが、この6月初めに一転、「合併」で合意、UAEのドバイ系ファンド傘下の欧州ゴルフツアー「DPワールド」も加えた「統合体」になる。サウジは10億ドル以上出資するが、「経営権はPGAが握る」という。米国が誇るゴルフのメジャー大会が「サウジに乗っ取られる」と米国上院で聴聞会が開かれるなど問題視された。日本では男子プロゴルフは女子よりも人気が低下しており、日米の賞金格差が一層拡大しそうな状況は気がかりだ。

中東産油国が2000年代以降、欧米のスポーツ・ビジネスへ巨額の投資をするようになった「狙い」は何か。その1つは米国パシフィック大のベイコフ教授の「スポーツウォッシング」説ではないだろうか。スポーツの「巨大イベントを開催、社会が抱える問題を洗い流し、大衆の関心を遠ざける一方、世界中で人気のスポーツに関与して国のイメージアップを図る」戦略。巧妙な「スポーツの政治利用」と言える。

中東初のサッカーW杯を開催するに当たってカタールはスタジアム建設や交通インフラ整備に30兆円もの巨費を投じた。前回のブラジル大会はオリンピックとの兼用施設もあり、投資額は2兆円。カタールがそれほどまでにW杯に力を入れる姿勢に「スポーツウォッシングの思惑」が透けて見える。

ところがカタールは 世界から注目を集めたため、W杯関連の建設工事で「多数の外国人労働者の死亡が発生」、「LGBTQを差別している」などカタールの「人権問題」が白日の下にさらされる「皮肉な結果」も生じた。

カタールは秋田県ほどの小国で、人口も250万人程度、それも自国民は30万人余り、もちろんサッカーの競技人口も少なく、競技実績も乏しい。それでもFIFAが、W杯のカタール開催を決めたのは、「中東初、アラブ諸国初」などの狙いもあったが、「オイルマネー(カタールは天然ガス・マネー)になびいた」が真相だろう。「地獄の沙汰もカネ次第」。世界のスポーツ界の沙汰も「カネ次第」となって来ている。

大谷の活躍で多くの日本人が溜飲を下げ、ストレスを解消している。野球に関心のない「うちのカミさん」も「大谷が今日も打ったよ」と告げると「あら!32号ね」と反応する。

しかし、日本で「大谷効果」の恩恵を受け、「1番喜んでいるのは岸田首相」ではないだろうか。岸田はG7広島サミットを主催し、人気を一時的に回復したが、マイナンバーカードのトラブル、秘書の長男らの「官邸忘年会の露見」などが重なり支持率は低下している。これらの問題も去ることながら岸田が政権を担当してから約1年9ヶ月、オイル・ショック以来の半世紀ぶりの「物価高騰」が国民生活を圧迫している。加えて「GDP2%の防衛費増額」、「原子力発電への回帰」など日本の将来の方向性を決めるような「重大な政策転換」が行われた。

しかし、日本には「暴動」はもちろん「デモやストライキ」もほとんど起きなかった。それは何故か。大人しい国民性のせいなのだろうか。「大谷の活躍」で日本には岸田政権が仕組んだ訳でもないのに「スポーツウォッシングが働いた」のではないだろうか。

岸田の側近はそうした「僥倖」に気づていないだろう。それでも昨今の異常な「大谷フィーバー」に接していると「大谷翔平へ国民栄誉賞を与えよう」との企みを「岸田へ上申する」可能性が高い。「スポーツの政治利用」である。

「イチローは国民栄誉賞を複数回辞退した」と噂されている。「国民栄誉賞」は基準や選考過程が明確でない。そんな筋の悪い変則球は大谷には通じない。「イチローに習って見事、外野スタンドへ打ち返す」と僕は予測している。(敬称略)

2023・7・13
上田 克己

プロフィール

上田 克己(うえだ・かつみ)
1944年 福岡県豊前市出身
1968年 慶応義塾大学卒業 同年 日本経済新聞社入社
1983年 ロンドン特派員
1991年 東京本社編集局産業部長
1998年 出版局長
2001年 テレビ東京常務取締役
2004年 BSテレビ東京代表取締役社長
2007年 テレビ大阪代表取締役社長
2010年 同 代表取締役会長
現在、東通産業社外取締役、日本記者クラブ会員
趣味は美術鑑賞