[対談] 小学生、中学生にこそがん教育が必要
がんは、わが国の代表的国民病となって久しいが、がん研究の進歩により近年ではがんを克服した人も少なくない。とはいうものの、現実には元気であった人が思いがけずがんに罹患し、急逝するということもあり、家族や周辺の人は様々な悲しみを味わうことも少なくない。すなわち、がんは単に個人の疾患ではなく、家族、親族、地域社会など広い範囲の人に影響を及ぼす。そこで、多くの書物やメディアががんに関する知識の普及活動を行っている。
そのような普及活動の中で注目されるのが、東京女子医科大学の林和彦先生が数年前より小学生、中学生を主な対象として行っている、学校に出向いてのがん教育である。今回は、林先生に活動の内容や反響についてお聞きした。
がんは身近な病気なのに理解されていない
高崎 林先生は、がん手術療法、特に食道外科からキャリアを開始し、その後内視鏡診断、がん化学療法へと診療の幅を広げ、総合的な視点からがんの手ごわさを熟知されています。そのような先生が子供を対象とした教育を続けておられるのは非常に意義があると思っています。まず、先生が医師を志したきっかけについてお話しください。
林 私の父は歯科医師だったのですが、50歳でがんのため他界しました。当時私は中学3年生でしたが、父のがんによる死に強い衝撃を受け、しばらくは泣いてばかりいました。また、残された家族のその後の非常に生活も心配でした。私は幼いころから医師になろうと思っていましたが、この経験が決定的なものになりました。
高崎 なるほど。がんは患者さん本人だけでなく、家族や周囲の人に与える影響が大きいですから。つらい経験をされて医師になる決意を固められた訳ですが、なぜ子供であってもがんについて知っておくべきと考えられたのでしょう。
林 父の死に強い衝撃を受けた事が遠因になったのかもしれませんが、自分ががんから受けたような衝撃や不安をいかに和らげ、克服するかが追及すべきテーマの1つとなったのです。このテーマを解決しようとする過程では紆余曲折がありましたが、現在は子供に対するがん教育が最も有効であるという考えに至りました。
高崎 その紆余曲折についてお話ください。
林 はい。健康な一般人が、がんの話題に接するのは芸能人などの有名人が、がんに罹った、がんで死亡したというマスコミの報道を通じてではないでしょうか。2017年にも元女子アナウンサーのがん死が大きな話題になりましたが、報道に接した一般の人たちが感じるのは、「がんは死ぬ病気、闘病が過酷、怖い」という印象だけにとどまり、最新のがん医療の現実については学ばないのではないでしょうか。そして死についても、誰にでも訪れるものであるにもかかわらず、必要以上に恐れる傾向があるように思います。これは、現代のわが国では大半の人は自宅ではなく病院で死を迎え、死を身近に感じなくなったことと関係していると考えています。
最近の推定では、年間のがんの新患は約101万人ですが、がん死数は約37万人です。言い換えれば、たとえがんに罹患しても6割以上はサバイバーとなるということです。また、がんと診断されたら職を失う人が34%にも達しますが、サバイバーとなれば復職も可能なはずなのに、患者さん本人も職場も「がんは死ぬ、闘病が大変」という思い込みから、自ら退職したり職場の圧力で辞職したりしています。これも多くの人ががんの正しい知識を持たない結果だと思います。
高崎 そうしますと、一般への啓発が重要ということでしょうか。
林 当初私もそう考え、10年ほど前に大学の公開講座でがん知識の普及を始めました。しかし、来場するのはがんに関心のある人や関係者に限られていました。そして、このような人たちは自ら知識を求めている人ですから、啓発の必要性は低いのです。啓発の最も重要な対象は、がんに関心のない人のはずです。そこで、大学で人が来るのを待つのではなく、自分たちが出てゆくことを考え、新宿駅の西口広場で幅広いボランティアに支えられ、がんの知識普及イベントを行いました。これは多くの人を集め、アンケート回答者だけでも約6,000人にのぼったほか、マスコミでも取り上げられ一応の成功をみました。また、これと並行してテレビの医療ドラマの監修も引き受け、在宅医療やオピオイド使用について啓発を試みました。
患者の孫の対応から子供のがん教育に着目
高崎 そこまで実行されてもまだ不十分であると考えて、子供のがん教育に向かわれたのですか。
林 そうですね。私が啓発したかったのは、喫煙や過度の飲酒を続けるなど生活習慣の乱れが大きい人です。しかし、このような人はイベントなどには来てくれません。それに若い世代にがんの知識を持ってもらいたいと考えるようになっていました。そのきっかけとなったのは、外来受診をしていた50代後半の女性が、いつも4歳のお孫さんを連れて来院していたのですが、化学療法で髪の毛が抜けた自分の祖母を見た孫は「おばあちゃん気持ち悪い」といったのです。それをたまたま目撃した私は、当初は孫の思いやりのなさに憤慨したのですが、それはがんの知識がない故ではないかと思い至りました。そこで、子供たちにがんについて知ってもらうのにはどうしたらよいか悩んだ末、「そうだ、学校に行こう」とひらめいたのです。
高崎 そこで、小学校や中学校に出向いて教育しようと。
林 はい。しかし、すんなりと学校に行けたわけではありません。手始めに地元の区役所に電話しましたが、全くの無反応でしたし、教師や養護教諭は多忙なためとてもかかわれないという反応でした。そのようにしながら各方面に働きかけてゆくうちに、なんらかの形でがんに関わったことのある教育関係者などの理解が徐々に得られ、2014年に都内の小学校で第1回目の授業を行えました。そして現在では、全国から依頼が来るようになっています。
この活動の目的は、もちろんがんのことを知ってもらうことですが、身近ながんという疾患を知ることを通じて、命の大切さを知らせることができればと考えています。いくら「命が大切だ」と言葉だけで訴えても実感は湧きません。私はサバイバーを授業に同行してもらうこともあるのですが、サバイバーの体験を直接聞くことにより、具体的に命について学べると思いますから。
高崎 実際の授業の結果はどうだったのでしょう。
林 すばらしい手ごたえを感じました。授業の前後でアンケートをとるのですが、授業前のがんについての印象は「死ぬ病気」「とてもつらい」「入院する」といった後ろ向きのものですが、授業後は「必ず死ぬ病気でないことが分かって安心した」「家族に検診に行くよう勧めた」「日常生活が大切」「祖母ががんになった時、小さかった自分にもできることはなかったか」など前向きであったり深い内容を持ったりするものに変化していました。
高崎 具体的にはどのように授業を進められるのですか。
林 当初は、小学生では分かりにくいだろうから、紙芝居のようなもので説明しようと考えていたのですが、担任の教師から「小学生は先生が考えている以上に理解力があるし、モチベーションも高いです」といわれ、自分なりのスライドを作ってそれを基に話すようになりました。具体的には、あらかじめ対象の生徒にアンケートに答えてもらい、これによって生徒のがん知識のレベルを知ったうえで、「がんてなに?」「がんにならないためにどうしたらいいのか」の授業を私からの説明と話し合いによって進めています。もちろん授業案も作成しています。
がんを意識するときからがんの知識の蓄積が始まる
高崎 文部科学省もがん教育を推進する方向で動いていますね。
林 2014年に「“がん教育”の在り方に関する検討会」を設置し、「がんの教育総合支援事業」を立ち上げ、各地のモデル校で多様な取り組みを始めています。その影響か、従来は私の方から「授業をやらせてください」とお願いしていたのですが、最近では「授業をお願いします」と依頼されるようになりました。
文科省では今後、平成32年度から小学校で、33年度から中学校で、34年度から高等学校でそれぞれがん教育を全面的に開始する予定です。そうなると、全国には膨大な数の小中高の学校がありますから、大学教員など一部の医師だけで授業をカバーすることは不可能です。そこで、学校医などが講師役を担うということも考えられます。
高崎 厚生労働省でも2期にわたる「がん対策推進基本計画」で、がん教育の重要性に触れたり、また国立がん研究センターがん予防・検診研究センターがまとめた「がんを防ぐための新12か条」などを掲げてきましたが、一般の人はこのようなものが出ていることも知らないレベルであると思います。ですから、大方の人はがんに罹って初めてがんについて考えるということになりますが、それまで何の知識もなかっただけに、パニックに陥ったり、絶望したりすることが多々あるでしょう。その時、がんに対する知識を子供のころから少しでも持っていれば、アンテナを立てていて、そのアンテナで受けたものが知識として増えてゆくという効果はあるでしょうね。
林 おっしゃる通りです。アンテナを立てているということは大切ですね。私はがんを意識することで知識の蓄積が始まると考えていましたが、その意識にあたるのがアンテナですね。
高崎 私の経験でも、ある程度の学歴にある人に限ってがんに対する偏った知識を持っていて、こちらの説明を容易に受け入れないという印象があります。このような人が、怪しげな治療法に引っかかる確率が高いように思います。
林 書籍の販売サイトで「がん」で検索すると、ベストセラーの1位から20位ぐらいまでは、その種の「これでがんが治る」「がんを治す食事」といった書籍で占められていて、耳あたりはよいけれどエビデンスの裏付けのない治療法を勧めています。
高崎 そうですね。正しいがんの知識がないから、簡単に信じ込んでしまうのでしょう。
林 がんは6割以上が克服できると最初に知ってもらい、そのための治療にはこんなものがあると子供のうちに植え付けておけば、そのような事態は防げると思います。
高崎 6割以上が克服できるということは、あまり知られていないでしょうね。
林 社会全体にがんに関する情報が不足しているのです。
高崎 それは医療側の問題であるけれど、マスコミも取り上げてくれないですね。
林 付け加えると、親は誰よりも自分の子供から検診や生活習慣の是正を勧められると実際に行動するといいます。検診率が10%上がれば相当な医療費削減につながります。この面からも子供のがん教育はコストパフォーマンスの高い事業だといえます。
日本人の死生観を変える契機にもなり得る
高崎 文科省が動いてがん教育が小学校から高等学校で始まるのは喜ばしいことですが、基本法を作っただけで、学校現場は動くものなのですか。
林 それは動かざるを得ません。ただ、現在の現場にはマンパワーの余裕が全くありません。この上がん教育を行わなければならないのか、という空気も感じます。人員の配置、手当などの待遇面を考えるべきだと思います。調べてみたら、文科省全体の年間予算が5兆円で、義務教育の関連費は全国の小中学校の教員の給与も含めて1.5兆円でした。一方、昨年薬剤費の高騰が問題になった免疫チェックポイント阻害薬は、肺がん患者5万人に使用したら、それだけで1剤で1.75兆円にもなるため、薬価が半分になりました。未来を担う子供たちの教育費が、生存期間を何ヵ月か延長する薬剤1つよりも安いということには、忸怩たる思いがすることも確かです。
高崎 そうですね。そこは日本人の死生観にもかかわる問題です。日本人の平均寿命は世界トップクラスですが、健康寿命はそれより10年前後短いですね。健康寿命は他の先進諸国と大差はないでしょう。高齢者の寿命の延長に注力するよりも、現在健康な人が、十分な暮らしができるような社会にしたいという議論があってもよいと思います。現在は、今の若い世代は病気に罹る率も低いので予算は使わない、という考え方が主流ですが、医療費を若い世代が質の良い生活を送れるようにするために使うという考え方もあると思います。しかし、このような議論をすることさえ一種のタブーになっています。
林 今のお話ですが、講演会などで「小中学校の予算が1.5兆円、一方医療費は―」という話をすると、皆さん総論賛成なのです。ところが各論になると「年寄りに死ねというのか」ということになってしまいます。本当に難しい問題だと思います。
高崎 どこかでこの問題をマスコミが取り上げ、真剣な議論が興ればよいのですが。
林 私が思うのは、世代交代に伴い日本人の死に方も変わってくると思います。戦中派世代では、厳しい時代の中で生き残ることそのものが何よりの目的とされました。一方、団塊の世代では、個人主義的傾向がみられ、自分なりの生き方を主張する人も増え、無理な延命は不要という人もみかけます。この団塊の世代の風潮に乗って、無理に生きるよりファッショナブルに最期を迎えようという方向に変わってくる可能性もあると考えています。
高崎 そうですね。意外に簡単に変わる可能性はありますね。
林 日本人の良い点はそこかなと思います。中途半端な駆け引きで説得しようとすると「年寄りに死ねというのか」という事態になりますが、「お金がないし、支えきれない」と誰かが思い切っていえば、「仕方がない」という人が多いのではないでしょうか。
高崎 そうですね。そのようなことも含めて子供の時代から、アンテナを立てていることが大切ですね。今は親と子で、がんだけではなくて病気のこと、生きる意義、死生観などについて話すことはないでしょうが、どこかで議論のきっかけができれば社会が変わり、意外にスムーズに進むかも知れないですね。ですから、林先生の活動についてお聞きして、がんを切り口として、どうやって健康な生活を送るか、自分の身をどうやって守るかなど、人生の話につながると感じました。
では、最後に一言お願いします。
林 先生がおっしゃるように、今後も持続可能な社会保険制度を維持するためには、国民がより成熟した健康観や死生観、人生観を持つことが不可欠です。その一環として子供のがん教育もあると考えています。
高崎 林先生、本日は大変ありがとうございました。
林和彦先生(はやし・かずひこ)プロフィール
1986年千葉大学医学部卒業、同年東京女子医科大学消化器外科に入局。94年に米国南カリフォルニア大学へ留学。帰国後の2010年に東京女子医科大学化学療法・緩和ケア科教授に就任。14年に同大学がんセンター長に就任現在に至る。近年はがんの啓発やがん教育に傾注し、17年に中学校・高等学校保健科教諭一種免許、特別支援学校自立教科一種免許を取得。近著に「がんになるってどんなこと」(セブン・アイ出版 2017年)、「がんは治療か、放置か 究極対決」(毎日新聞出版 2016年)、「消化器癌の緩和ケア71-74 消化器疾患の最新の治療」(南江堂 2015年)などがある。